どうもこんにちは、私はうめぼし。こっちはラジオの編集で使ってるAudacityのノイズ除去画面。(何)
前回の記事では、自分が「思考のノイズ」について切実に悩んでいるとの話に触れていましたが、今回はその辺のことについて掘り下げてみたいと思います。
まず、ノイズそのものが悪なのかどうなのか、そもそもノイズって一体なんなのか?というところについて、私なりに考えてみたいと思います。
ツイッターにおける「情報ノイズ」
普段、ハヤえもん界隈で日常的に使われているつぶやきサービス「ツイッター」。このツイッターってすごくノイジーだったりします。
最近私は、師匠(りょーたさん)を見習って、「ハヤえもん」に関するキーワードでエゴサ、いいね、リツイート、リプライなどをするようになりました。それ以前(BH)はというと、全く広がりを持たず、ただ淡々と好きな人だけをフォローして眺めているような状態でした。
このツイッターの使い方だと、ノイズが少なくて済みます。しかし、このままだといまいち関係性が広がらないんですよね。
そして、師匠のツイッターの使い方を真似るようになり、急速にノイズが増えていきました。当たり前ですよね。確かに、「ハヤえもん」に関するキーワードを発信してくれているということは、貴重なハヤえもんユーザーさんではあることに違いありませんが、ほとんどの方はそれ以外の日常的なツイートの方が圧倒的に多いわけです。
しかしそれはお互いに言えることだったりします。私がフォローしに行くことによって、ありがたくもフォロバ(フォローバック=フォロー返し)してくれるユーザーの方も中にはいます。その方にとっては、タイムライン上に私のハヤえもんに関するリツイートがズラーッと並んでしまうわけです。これをノイズでなくしてなんと言うのか。
ここで、一つの提案をしてみたんですね。
大丈夫ですよー!こちらこそ、ハヤえもん関連のリツイートが多いのでうるさかったら「リツイートは表示しない」「ミュート」などの機能もありますのでご自由にどうぞ(*ノノ)笑 pic.twitter.com/x4z9ZB86tI
— うめぼし@ハヤえもんデザイナー (@UmeboshiKantaro) October 11, 2017
ツイッターには、フォローした人の「リツイートを非表示にする」機能と、「ツイートそのものをミュートにする」機能が備わっています。
これを使うことによって、お互いにノイズに苛まれることなく、程よい距離感で、でも気になる時には覗きに行って、みたいなことができるようになります。
大事なのは、氾濫する情報全てをいきなりノイズとして扱うのではない、という事。
情報をひとまずざーっとニュートラルな状態で流してみて、自分のと関連性が見出せそうにない、どうしてもダメそうなものだけをノイズとして弾いていきます。
そう。この「情報ノイズ」って、自分との関連性が見出せるかどうかによって左右されるわけです。
今までは関連性がないと思っていた一つの情報でも、見方を変えればひょっとしたらとても身近で可能性に満ちた情報であるかもしれません。その入り口を増やす事って、関係性に広がりを持たせるためにすごく重要な事だったりするんですよね。
実際に、今まで一切接点のなかった分野の方々と、ツイッター上で次々と交流が生まれていったのです。ツイッターは確かにノイジーではあるけど、コツさえ掴めばとても可能性に満ちたツールだと、私は思うようになりました。
世にも奇妙な物語にみる「ノイズ」の評価
私が昔見ていたテレビ番組に「世にも奇妙な物語」というのがあります。どこか不気味でリアリティのある短編フィクションを、何本かまとめて放送する人気番組ですね。
その中で、私の一番印象に残っている作品を紹介します。
渡部篤朗さん演じるとある作曲家の話。
この主人公は天才作曲家で、冒頭では自宅のピアノで作曲していました。しかし作曲にのめり込むあまり、次第にあらゆる生活音が気になり出し、ノイローゼ気味になってゆきます。
そこでノイズを徹底的に消すために最終的に用意されたのが、完全防音コートされた部屋。その部屋では、足音も、自分の声も、もちろんピアノの音も、全ての音が「無」になります。「これでようやく作曲に集中できる」。楽譜にペンを走らせても、紙とペンが擦れる音さえありません。
しかし、作曲家はそれでもいまだ鳴り止まない「ある音」に気が付きました。
それは、自分の心臓の鼓動です。
最後に残ったその音さえ自分の手で止めれば、完全なる無の世界に旅立てることに気が付き、手に持っていたペンを胸に突き立て…。
…あらすじ書いていて泣きそうになってきました。立派なトラウマ案件ですね。渡部篤郎さんと、その妻役の七瀬なつみさんのお芝居がとても強烈だったのを覚えています。
あんまりにも強烈だったため、「Noise」と題した絵を2004年当時、お絵かき掲示板で描いて投稿していました。
世にも奇妙な物語の「Be silent」という作品には、ノイズを徹底的に除去していった先に、果たして何が残るのか?という問いが詰まっているのです。
私を悩ませる「思考のノイズ」
さて、ここまでくれば、私自身の「思考のノイズ」についても、一つの方向性を見出せそうではありませんか?
私はまるで「自分が1人の人格ではなく、色んな自分がたくさんいる」かのような状態にしばしば陥ります。
頭の中で、色んなキャラクターが各々に色んな話をしていて、あーでもない、こーでもない、と、脳内会議が行われています。いえ、会議なんて生易しいものではないですね。時に罵倒、時に自虐、時に慰め、時にラーメン、つけ麺、僕イケメン…大混乱です。あーさっぱりさっぱり。
ひとたびこの状態に入ると、完全に思考停止。
思考しているにもかかわらず、それらが聞き取れないぐらいに溢れかえってしまうんですよね。もうそこまで行くと全体を「ノイズ」としか捉えられなくなります。
しかし最近試みているのが、「一人一人の意見を順番に聞く」ということ。
大勢の話をいっぺんに聞くというのは、なかなか大変な話です。それこそ聖徳太子レベル。しかし、それら複数の要素を一旦分解して、一つ一つクリアにしてあげるという作業を経て、思考の取捨選択を図るというものです。
これがもう少し慣れてくるといいなあ〜と、自分では思っているんですよね。
今までは「みんな、静かにして!」という感じだったのを、「まずはあなたの話から聞きましょう」という風にできると、ぐっと前進できると思っています。
自分の思考のオーケストラを自分で指揮するみたいな感じですかね。きっとみんな、演奏したくてたまらないんだと思います。たくさんのアイディアとパワーに満ち溢れている。だけど、調和してなければただのノイズ。がんばれ、指揮者。がんばれ、私。
ノイズから「調和」へと導く、これが私の重要なテーマの一つかもしれません。多分。どうかな。うん。きっとそんな感じ。(歯切れが悪すぎる)
しかしこう重たい記事が続くと、次回あたりコーヒーブレイクしたくなりますね…(。-_-。)
ではまた。